二つの革命がプロレス界を大きく変えた
負けたくない闘争心の塊の長州
そしてその戦いを通して感化され、ありとあらゆる戦いに挑んだ天龍
これは、そんな野望を持った二つの革命児の戦いの歴史である。
< 第一幕 反逆 >
1982年10月8日 新日本プロレス 後楽園ホール |
「俺とお前とどこが違う。お前はチャンスを与えられただけだ。
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長州力が革命戦士と言われる原点とも言える名言!! 長州はこの日の試合で藤波よりも先にコールされた事に対して リングアナウンサーにクレーム。 試合前から藤波との間に不穏な空気が流れ、試合終了後に爆発した。 |
藤波長州名勝負数え歌
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ここまでの藤波辰巳Vs長州力 シングル12戦
< 藤波 4勝 長州 4勝 引き分け 4戦 >
< 第二幕 進攻 >
ここで長州率いる革命軍が、全日に戦場を移す
1984年12月
ジャパンプロレス勢11名が全日本プロレスの大会を観戦
そのまま試合後にリング乱入
長州維新軍 Vs 全日プロレス
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全日本に参戦した長州を、馬場はそのファイトスタイルから「シャム猫の喧嘩」と比喩していたが、
長州の登場で、これまで対外人との対決だけを行ってきた全日本が活性化され
やがて天龍革命へとつながった事
また同じ時期に新日本と全日本の外人引き抜き戦争も勃発し、
新日本が育てあげたハンセンやベイダー・キッドがその後の全日本マットを支えた事は、
全日本にプラス以上のものをもたらしたのは史実明白であった。
勝敗 (1戦) | ||
長州力 | 0-0 (1引分) | ジャンボ鶴田 |
長州軍が獲得したタイトル
インターナショナルタッグ | 長州力・谷津善彰 |
PWFヘビー級 | 長州力 |
インターナショナルJrヘビー級 | 小林邦明 |
勝敗 (4戦) | ||
長州力 谷津善彰 |
2-2 |
ジャンボ鶴田 天龍源一郎 |
勝敗 (3戦) | ||
小林邦明 | 1-1 (1引分) | 三沢タイガーマスク |
勝敗 (2戦) | ||
谷津善彰 | 1-0 (1引分) | 天龍源一郎 |
< 第三幕 原点回帰 >
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1987年4月27日
両国国技館での猪木vsマサ斉藤戦に際し、
試合後長州はリングサイドから猪木、藤波に宣戦布告
1987年5月13日
長州力が札幌大会に乱入
新日参戦を強行突破
1987年6月1日
長州が愛知県体育館で2年8ヶ月ぶりに新日マット正式復帰
1987年6月12日 新日本プロレス 両国国技館 |
長州
前田 |
アントニオ猪木vsマサ斎藤の試合後、 長州の呼びかけに呼応した、藤波、前田、木村、マシンらがリングへ。 一方の猪木は、マサ斎藤、坂口、藤原をナウリーダー軍に引き入れる。 それにしても、長州のシャウトは名言だった。 |
世代闘争『ナウリーダーvsニューリーダー』勃発
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1987年10月19日
猪木はパートナーXを引き連れ藤波、長州と激突
Xは若手の山田恵一
これは藤波と長州に対し完全になめた人選で
はりきる山田を長州が1分で怒りのラリアットで勝利
、
しかし納得いかず、猪木vs 藤波・長州のハンディキャップマッチが実現
藤波が猪木にサソリをかけたところに長州は藤波にラリアット
これで新世代は空中分解
猪木にとどめを刺すのは自分だとアピールする長州
長州から始まった世代闘争も新世代が自爆し終わった
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さらに1988年後半のイリミネーションタッグリーグで、
なんと猪木とタッグを組み、リーグ戦を優勝に導いた
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< 第四幕 改革 >
1987年
長州力らジャパンプロレス勢が新日本プロレスにUターン移籍した後の全日本プロレスで、
天龍は全日本を活性化するためにジャイアント馬場に「阿修羅・原とタッグを組みたい」と直訴
2人のタッグは「龍原砲」と呼ばれ、「天龍革命」「REVOLUTION」が始った。
この2人の姿勢に共感した川田利明、サムソン冬木、北原辰巳、天龍の付き人の小川良成がさらに行動を
共にするようになりこの6人の軍団は「天龍同盟」と呼ばれた。
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1990年
馬場坂口会談で、急遽新日本の大会へ全日本出力選手の参戦決定
1990/02 全日本プロレスにて |
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2.6新日本マットに、メインに"NWA世界ヘビー級チャンピオン"
リック・フレアー対グレート・ムタの対決を予定していたが 、フレアーがけがを理由に来日をキャンセル。 そこで、坂口社長が馬場社長に全日本の選手の出場を依頼。 馬場さんは「ファンを裏切ってはいけない。」と大英断。 ジャンボ鶴田、谷津嘉章、天龍源一郎、川田利明、スタン・ハンセンの派遣が 決定となり、全日対新日の夢の交流戦が行われることになった。 新日側から不沈艦対皇帝戦士、五輪コンビ対木戸・木村組、 そして天龍、川田対長州、小林邦明のカードが発表。 しかし、天龍源一郎が怒っり一言。 「 この発言で、お祭りムードが一変、全面戦争の様相。 馬場社長は、天龍のパートナーに当時敵対関係にあったにもかかわらず、 タイガーマスク(三沢光晴)を川田に変え指名。 長州もパートナーにジョージ高野を指名した。 |
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ジャンボ鶴田Vs天龍源一郎 シングル9戦
< 鶴田 4勝 天龍 3勝 引き分け 2戦 >
< 第五幕 野望 >
1990年3月
天龍・ハンセンがコディ・ウイリアムに世界タッグ戦で敗北を期に、天龍とハンセンは仲間割れ
4月に天龍は「革命は完了した」として同盟の解散を宣言し川田らを全日本本隊に戻す
1990年4月19日
鶴田の保持する三冠王座に挑戦するも敗北した天龍は、
試合後「もう終わったと思ってる」とコメントし、この試合を最後に全日本を退団しSWSへ
1990年9月29日
SWS旗揚げ
SWSは、豊富な資金を元に既存プロレス団体から選手を引き抜くなど
『黒船』としてプロレス界に激震を引き起こした
当初UWFに対抗するプロレス団体として新日本の武藤啓司を引抜きに失敗して
全日本の天龍を引抜き、新日本と全日本の精鋭をお金の力で引き抜いた。
相撲にちなんだ部屋別制度を採用
部屋として、天龍源一郎率いる『レボリューション』、
若松市政率いる『道場「檄」』、
ジョージ高野率いる『パライストラ』の3つが置かれた。
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1992年5月
SWS 活動休止
< 第六幕 再会 >
1992年7月14日
WAR旗揚げ
1993年
WAR天龍
新日本参戦
平成維新軍 Vs 天龍WAR
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1992/12/05 新日本プロレス |
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天龍の新日マット初登場
で反選手会から勝利後、 天龍は長州・猪木をリングに呼込み宣戦布告 |
新日本プロレス Vs 天龍WAR
1993/1-1996/4
61試合 新日本36勝 天龍WAR25勝
※平成維新軍や長州・天龍のタッグは除く
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新日本VsUWFインターナショナル 全面抗争勃発
1995/08/24 新日本プロレス事務所 |
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長州は、高田と電話でUインターとの全面対抗戦を電撃決定した直後に |
前哨戦 壮絶ケンカマッチ
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1995年10月9日
Uインター全面対抗戦
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藤波辰彌vs天龍源一郎 の勝敗 |
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シングル3戦 | 藤波1勝 | 天龍2勝 |
タッグマッチ直接対決1戦 | 藤波1勝 | 天龍0勝 |
合計 | 藤波2勝 | 天龍2勝 |
※2010年9月リアルジャパンにて、藤波と天龍はタッグで激突し、
天龍が藤波をフォール勝ちしているが、
この試合はレジェンドマッチなので勝敗から省きます。
天龍(WAR)の戦いの幅が広がる。
UWFインター、山崎、ターザン後藤と激突
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長州力 一度目の引退
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邪道大仁田新日参戦
2000/05/22 新日本プロレス 海老名大会の試合前の練習中 |
↓ 大仁田 「 そんなこと心配しとらんですよ! 」 ↓ 「またぐなよ!」 「またぐなよ!」
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練習中だった長州に大仁田が歩み寄り |
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2001/04/09 新日本プロレス 「STRONG STYLE 2001」 大阪ドーム |
「おい!こら!お前がいつもやってる事やってやるから上がって来い!こいこら!」 「お〜いお前の好きな会長(猪木)連れて 上がって来い!橋本もみんな。 お前らの好きな会長連れて上がって来い!」 |
ライガーが村上に突っかかり試合開始。しかし、村上がライガーのマスクに手をかけ、 レフェリーに暴行を加えたことであっけなく反則で試合終了。この結末に小川が暴走し 放送席の藤波社長に抗議すると、突然、「パワーホール」が鳴り響き長州が登場して 小川に突っかかる乱闘へそしてリング上にて |
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< 第七幕 別離 >
2002年5月31日
長州力 新日本プロレス退団
現場監督として取り仕切っていた長州力だったが、
2002年2月、武藤敬司らが全日本プロレスに事実上引き抜かれた責任を取らされ監督の任から降ろされ
2002年5月に新日本プロレスの体制批判を行い退社した
2003年3月1日
横浜アリーナ
WJプロレス 旗揚げ
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2003/11/19 ZERO-ONE道場 |
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当時ZERO-ONEの社長であった橋本真也が他団体であるWJプロレスに 所属していた長州力をスポーツ紙の紙面上で痛烈に批判したことが この騒動の前段階としてあった |
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。WJプロレスは、旗揚げ当初から観客動員に苦戦しギャラ未払いが生じ、
8月に鈴木健想が、9月に谷津嘉章が相次いで退団
さらに
9月6日総合格闘技イベント「X-1」開催したが、
WJプロレスでは、一度発表された興行が中止となる事態が多発
選手の専属契約の解除とリキプロへの移行
11月以降、長州自身もZERO-ONEを主戦場にハッスルなどにも参戦するようになった。
佐々木健介も12月に退団
2004年8月13日
所属選手がWJから分離して設立された『リキプロ(立石史代表)』へ移籍
事実上のWJとしての活動は停止
長州力vs天龍源一郎の勝敗 |
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シングル8戦 (2戦は長州の反則負け) |
長州3勝 | 天龍5勝 |
タッグマッチ直接対決1戦 | 長州1勝 | 天龍0勝 |
合計 | 長州4勝 | 天龍5勝 |
反則を除いた場合 | 長州4勝 | 天龍3勝 |
< 第八幕 ど真ん中 >
2004年10月9日
新日本プロレスのど真ん中に再び
新日と猪木を徹底的に批判して去った長州力、しかし猪木は再度現場監督に長州を指名!
2004/10/9 新日本プロレス 「PRO-WRESTLER'S BE STRONGEST」 |
長州「新日本のど真ん中に立ったぞ!」 ![]() 「永田、よく(リングに)上がって きたな、お前だけ。 さすが、天下を取り損ねただけある。 中の人間が信頼されず、 外に出た人間がど真ん中に立った こと(の意味)を考えろ。 罪を背負うのはどっちだ。 次に立つ時は、オレのパワーホール全開で |
長州が突如、リングイン。マイクを手に取り新日本への逆上陸を宣言。 |
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天龍 NOAH上陸
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< 最終幕 伝説 >
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2010年4月19日
『天龍プロジェクト』
天龍源一郎が自身が最後のプロレス団体として旗揚げを発表
2010年10月20日
『レジェンドプロレスリング』
藤波辰爾、長州力、初代タイガーマスクが発表したプロレス興行
2015年2月9日
天龍 年内11月
引退発表
2015年2月9日 引退会見の席上で |
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会見席上で、大人げないプロレスラーへと表情を一変させた。 話が一昨年のオカダの「暴言」に及んだ時だ。 オカダの受賞コメントが「猪木、鶴田、天龍は俺と同じ時代じゃなくて 良かったなと思いますね。俺と同じ時代じゃ連続受賞なんて無理でしたし」 というものだった。 オカダは2012、13年の東京スポーツ新聞社制定プロレス大賞MVPを 2年連続で受賞。 天龍が記録した3年連続(1986〜88年)の快挙には及ばなかったが、 天龍以来25年ぶり4人目の連続MVPを達成した (あと2人はアントニオ猪木、ジャンボ鶴田)。 発言から1年2か月が経過した今でも、オカダに対する天龍の怒りは消える どころか増幅する一方だ。 会見では後進育成について「今のプロレスには天龍源一郎は古いタイプだからそぐわないと思います」と丁寧に答えていたが、リング上の戦いとなれば話は違う。 果たして11月の引退試合までに、昭和のMVP男と平成のMVP男の初激突は 実現するのか。ミスタープロレスは最後の最後までハチャメチャに突っ走る |
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2015年11月15日 試合終了後 |
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2019年6月26日
長州力ラストマッチ
心に刻め、ファイナルパワーホール
POWER HALL 2019 New Journey Begins |
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× |
×長州力(リキプロ) |
17分29秒 キングコング ニードロップ |
藤波辰爾(ドラディション) 武藤敬司(W-1) 〇真壁刀義(新日本プロレス) |
○ |
試合終了後 |
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そして 控室のインタビューで 最後の最後に師匠である猪木への思いを語った。 「やっぱり、一番最大、気持ちの中で残っているのは やっぱり会長である猪木会長のことがやっぱり、 この6月26日という日にちが決まってから常に毎日、 頭のどこかで1回は猪木会長の顔、 名前っていうのが頭の中に浮かびますよね」 「やっぱり45年間、ここまで成長できたのは自分自身、 猪木会長のとてつもない、猪木会長とは違いがあるんですけど、 リングの中であの方をずっと見てきて、 プロレスっていうものが分かってきてあぁ大変だなこれはっていうのは、 やっぱり常に感じてここまでやってきてますね。 でも、それでも、とてもじゃないが、 やっぱりリングの中のアントニオ猪木に近づくっていうことは、 とてつもなく大変なことなんだなっていう」 ![]() ![]() 「これは本当に終わった時点の中で この業界でここまでファンの皆さんに支えられながらやって来れたのは、 ひとえにあの人を見て自分なりの感じ方で自分というものは、 プロレスは、こういうものだよって。 いつまでやるか分からないけど、 あの人は教えることはしないですけど、 リングサイドから我々には、ここにいる古い記者の人は、 多分、知っている通り、 猪木会長の場合は、あの方が会場の雰囲気を作るというか、 ファンの人たちが後押しするわけじゃなくて。 やっぱり凄いなって、その時代、 マスコミは馬場さんと比べたでしょうけど、 馬場さんも素晴らしい人でした温厚で」 「でも、自分が選んだのはプロレスの世界ですから、 どっちかというと自分の性分からすれば、 猪木会長のリングの中の、リングを下りてからも猪木さんの姿勢。 本当にこの人、プロレス24時間考えている、 やっているっていうようなことを感じてきましたよね。 ![]() まぁ到底及ばないですけど、 プロレスに大事なものを自分なりに自分なりにこう考えながら、 あのリングの中に打ち出してきたんじゃないかなと思っているんですけど、 どうなんですかね?やっぱり答えがないですから、 でも、その時代の猪木さんは、 猪木さんが会場の中を1人で雰囲気を作ってファンを引き寄せていましたよね」 「ボクなんか現場もやりましたけど、 なかなかそこまではできなかったですね。 やっぱり凄い方です。はい、そういうことです」 「藤波さんも今日はちょこっと触らせて頂いたんですけど、 藤波さんもどっちかというと、ずっと会長に付いてきた人ですから、 まぁ表現の仕方は、別にして彼もそうなんじゃないかなと思いますよ。 これはボクもちょっと分からないところでしょうね。 まぁでも、最後まで本当に悩みましたよ。 猪木さんを呼ぼうっていうね。 猪木さんを呼んで雰囲気作りをしてもらおうかなって いう部分もありましたけど、 今日は最後で自分の集大成としてどういう状況になるのかなって。 まぁでも熱い声援でファンの熱い声援でリングに 押し出してくれて感謝していますよ。 はい、以上です。どうもありがとうございました」 |
完結
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全ての関連試合を掲載しているわけではありません。 |
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